
R&Dの技術は、事業の言葉に訳されたときに死の谷を越える
「で、これは何に使えるんですか」。研究発表のスライドが三枚目に入ったところで、事業部の誰かがそう尋ねます。画面には測定結果のグラフが映り、従来の方法と比べてどこが改善したのかを説明している最中です。発表者は、後半で触れるつもりだった応用の可能性を、前倒しで話しはじめる。尋ねた側に悪気はありません。知りたいのは、その技術が自分たちの事業のどこに置けるのか、ということだけです。
研究開発の事業化が手前で止まる「死の谷」は、技術の未熟さで語られることの多い言葉です。けれども、止まる場面をよく見ると、研究の言葉と事業の言葉のあいだに隙間があり、そこを訳す人がいないことが理由になっている場合が少なくありません。足りないのは、二つの言葉を並べて訳す役割です。

死の谷とは:研究開発が事業化の手前で止まる段階
試作や実証まで進んだものが事業として立ち上がる手前に、多くのテーマが足を止める場所があります。
死の谷とは、研究開発の成果が事業化の手前で止まってしまう段階のことで、その正体の多くは資金や技術の不足より、研究の言葉と事業の言葉のあいだの隙間にあります(GreatRIVER編集部)。

資金が足りない、担い手がいない、社内の理解が得られない。挙がる理由はどれも本当ですが、同じ一つの隙間から生まれていることがあります。技術の価値が事業の言葉で語られていなければ、予算を判断する人は根拠を持てず、引き受ける事業部も手を挙げにくい。資金と人と理解は、言葉が届いたあとについてくるものでもあります。
R&Dの事業化の課題は、技術の未熟さだけではない
技術が未熟なまま事業化に進めないのは、谷ではなく研究の途中です。死の谷が課題になるのは、研究の側では手応えが得られているのに、事業の側で次の判断がつかないときです。
研究の言葉は、何が分かり、何ができるようになったかを語ります。精度、再現性、材料の特性。正確であることが何より大切で、言い過ぎないことが誠実さの証になります。事業の言葉は、誰が、いつ、いくらで、何のために使うのかを語ります。判断に使えることが大切で、分からないことにも仮の答えを置くことが求められます。どちらも、それぞれの仕事にとって正しい言葉です。
研究発表の三枚目で出たあの問いは、研究への疑いではなく、事業の言葉で言い直してほしいという頼みでした。ところが多くの組織では、その言い直しを誰が担うのかが決まっていません。研究者か事業部か、どちらかの努力に任されたまま、隙間は会議のたびに少しずつ広がっていきます。
研究の言葉を、事業の言葉に訳す
三つの例文で、研究の言葉と事業の言葉を一組ずつ並べてみます。特定の技術や企業の話ではなく、形を見るための例です。

一組目は「精度が上がった」です。事業の側が知りたいのは、その精度があれば何ができるか。人の目で確かめていた工程が要らなくなるのか、作れなかった製品が作れるようになるのか。訳すとは、精度の数字を消すことではなく、その数字が誰のどんな手間を変えるのかを、隣に書き添えることです。
二組目は「新しい材料ができた」です。事業の側は、いつ、いくらで届くかを考えます。研究者がまだ答えを持たない問いも含まれます。訳す人は、答えのない部分を埋めるのではなく、どこまでが分かっていて、どこから先が確かめるべき問いなのかを書き分けます。分からないことを分からないと伝えるのも、立派な訳です。
三組目は「論文になった」です。事業の側で問われるのは、その技術がどの事業の柱になりうるかです。この問いがいちばん重いのは、ここで答えが出ないと、技術を引き受ける事業部が決まらないからです。
訳すことは、研究の言葉をやさしく言い換えることとは少し違います。研究の言葉を残したまま、その横に事業の言葉を置く。対訳の形にしておけば、研究者は成果が言い過ぎになっていないかを確かめられ、事業部は判断に要る問いがどこまで埋まったかを見られます。
訳されないまま会議を重ねると、技術は研究所に戻る
研究の側は、伝わらなかった理由を技術の不足に求め、もっとデータを揃えれば分かってもらえるはずだと考えます。誠実な反応ですが、次の発表では説明がさらに専門的になり、距離はむしろ広がります。事業の側は判断の材料がそろわないまま結論を持ち越し、「面白いですね」という言葉で会議が閉じる。テーマは誰にも引き取られないまま研究所の中に戻り、研究者は事業化の話を持ち出すこと自体をためらうようになります。
死の谷の手前で止まるテーマの中には、事業の土台になりえたものも含まれていることがあります。それが止まるのは、谷が深いからというより、向こう側に届く言葉がなかったからです。
訳す人に要るのは、両方の言葉を正しいと思えること
訳す役を担う人に何より大切なのは、研究の言葉と事業の言葉の両方を、それぞれの仕事にとって正しい言葉だと思えることです。事業の言葉だけを正しいと思えば、研究の慎重さは歯切れの悪さに見え、成果を言い過ぎる訳になりがちです。研究の言葉だけを正しいと思えば、事業部の問いは理解の浅さに見え、訳す手間そのものを惜しむことになります。
訳す人は、まず研究者の話を最後まで聞き、何が分かっていて何がまだ分かっていないのかを聞き分けます。そのうえで、予算を判断する人、事業として引き受ける人が、どんな問いに答えられれば動けるのかを考える。訳した言葉は研究者に返し、「それなら言い過ぎではない」と頷いたときに、はじめて事業の場に出せるものになります。研究者に、事業の言葉で話すことをすべて求める必要はありません。足りないのは研究者の能力ではなく、あいだに立つ役割のほうです。
R&Dの事業化を進めるには、訳す役を組織に置く
訳す役は、誰かの善意や器用さに任せているかぎり、その人の異動や多忙とともに消えてしまいます。訳すことを一つの役割として名前をつけ、組織の中に置くことが出発点になります。
研究所の中に、事業部の側に、あるいはどちらにも属さない立場に置く。社内の人材で担えるなら、それがいちばん確かです。担い手が見つからないときや、社内の常識の外から問い直す視点が要るときには、外の人に役割の一部を担ってもらう方法もあり、コンサルティングで事業性の評価を進めるのも局面によっては有効です。大切なのは、訳す役がどこかに置かれていて、会議のたびに対訳が更新されていることです。そうなれば、三枚目で出ていた問いに、一枚目の対訳で先に答えておけます。
私たちが企業の内側で担う活動の一つに、「部署をまたいでつなぐ」があります。相談の入り口が、研究開発の部門から始まることもあります。企業に持ち込む五つの力の一つに掲げる「異質なものをつなぐ」は、技術と文化、研究と顧客のように分断された知のあいだに入ることで、死の谷の手前で要る訳す役もその一つだと考えています。

まとめ:研究と事業のあいだに、訳す役を置く
死の谷は、技術の未熟さだけで生まれるものではありません。研究の言葉と事業の言葉のあいだに訳す人がいないとき、成果は事業化の手前で止まります。訳すとは、研究の言葉を消すことではなく、その隣に事業の言葉を置くことです。精度が上がったなら、何に使えるか。新しい材料ができたなら、いつ、いくらで届くか。論文になったなら、どの事業の柱になるか。技術は、事業の言葉に訳されたときに谷を越える。
執筆:杉山 諒(株式会社アマナ/プロジェクトデザイナー・GreatRIVER主宰)
企業のブランディングや新規事業開発、人材育成など幅広いプロジェクトに参画し、プランニング・ファシリテーションを中心に企画・設計に従事。クリエイティブ人材育成プログラムamana Creative Camp、創造性人材循環事業GreatRIVERを主宰。認知科学コーチ。
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